yokoが死んでもう14年も経つ。
今日の午後4時前、14年前のこの時間にyokoは人間を終わらせた。
でもその後の俺は、一言では表せない貴重な体験をした。
人は霊的体験をしても、それを確かめる事は中々しない。
俺は体験の一つ一つを、現実と照らし合わせ事実照合をしていった。
そして実感として「身体は朽ちても、命は無くならない」と確信した。
この体験を人に言っても、中々理解してもらえなかった。
予知、守護霊、オーラ、生霊、魂・・
この存在の認知感覚を、どうしても伝える事も出来なかった。
だから、俺自身を気持ち悪く思う人も多々あった。
精神異常とも思われていた事もあった。でも自分の感覚は紛れもなく事実だった。
yokoが死んで2年位は、誰かにこの事を判って貰おうと事実をストレートに言っていた。
でも理解できる人は、殆どいなかった。唯一、sakaiばーちゃんだけが理解者だった。
sakaiばーちゃんは、初めから能力を持って生まれた人だった。
でも自分の夫にも気味悪がられ、能力自体を徹底的に非難されていた。
身体が弱く、年中身体の痛みに冒され、でも気持ちだけは強かった。
感を持っている人は、得てして人生の中で苦しみをしょって生きて来ていた。
だから感が鋭くなるのか、感があるからその人生を選ぶのか?俺には判らない。
でも、それと何らかの関係があると言う事は理解できる。
sakaiばーちゃんは「のた打ち回る事で開花する物、それが感。」と言う。
訓練すれば開く物でもなく、初めから備わっている物を開くだけと教わった。
霊感がある人だけしか判らない重い感覚は、諸処の人達には理解できないだろう。
全ての感情の奥底にある本当の自我を感じれば、誰もが善人であり悪人なのだ。
死を選ぶ事も善である事もある。死を選ぶ事が悪である事もある。
でもそれすらその人の自我が選ぶ事であって、善悪をつける事は出来ない。
yokoの選んだ事を肯定する事が、感が開く原動力になったと思う。
それは行動を肯定する事ではなく、yokoの意思を肯定する事だった。
それが俺自身の善であり、yokoの最善だったと確信した。
その上での感の開花なら、その開花にも意味を見出せた。
過去を振り返り、その為の人生だったと言えるしその道を歩んできただけだった。
そこには偶然もなければ、全てがシナリオを歩んできた結果として存在していた。
それを理解できた時点で俺自身は感を持ち、自分を肯定でき、そして生きる意味を見出した。
生きるとは「どれだけ楽しみ、どれだけ喜べるか。最後は笑顔でさようなら~。」
それを成就するのには、多くの悲しみ、多くの涙、を経験しないと辿り着かない。
齢59、もう何があっても慟哭は経験する事はないだろう。
穏やかに、時間の経過を楽しもう。それが自分のスタンスとなっている。
yokoが教えて導いてくれた、今の自分自身。これでいいんだ。。そう思う自分がいる。